※まだ執筆中につき途中までです。続きは随時更新予定。
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たまたま目についた洋灯《ランプ》に誘われてその骨董商に足を踏み入れたのは、麟太郎がまだこの町に移り住んで間もない頃のこと。雨上がりの陽光に紫陽花の露が煌めく六月のとある昼下がりであった。
長雨が廂を叩く音を聞きながら一向にすすまぬ筆と原稿を相手にしていると、どうにも気が滅入って仕方がない。雨が上がるとこれ幸いとばかりに下宿を飛び出したまではよかったが、碌《ろく》に地理を知りもしないのに方々を勝手に歩き回ったものだから、他聞に洩れず道に迷ってしまった。
生来の楽天家であったからまだいいようなものの、訊ねようにも人が見当たらぬ裏路地に迷い込んでしまってはさすがに心許ない。いい加減歩き疲れてきた頃にふと麟太郎が顔を上げてみれば、古びた看板が目に飛び込んだ。
〈サゝキ骨董店〉と墨で書かれたその古い看板は、昔ながらの佇まいを見せる小さな家々の間で、ひっそりと埋もれるように掲げられていた。
物珍しさに誘われるまま、麟太郎はその店に足を向けた。
入り口の引き戸、硝子窓ごしに中を窺ってみると、中は幾つかの小さな灯がついているだけで、まだ昼だというのに薄暗い。人が出入りしている気配もなく、どうしたことだろうと周囲を見回してみれば、傍らの柱に〈忌中〉と小さな張紙がしてあるのにようやく気付いた。
納得して再び店内に目を向けてみれば見たで、仄暗い灯がつくり出す幾つかの影が麟太郎の好奇心をいたく刺激する。
子供のように硝子窓に張り付いて覗いていると、そんな影の中に、小さな洋灯(ランプ)があるのに気が付いた。
高さはおよそ八寸、傘の幅は六寸ほどの卓上に置けるようなもので、飴色に艶を放つ摺硝子《すりがらす》の傘に蜻蛉《とんぼ》の透かし模様が入っている。
麟太郎は美術品の収集癖どころか興味もない男だったが、この洋灯には何故か心が動かされた。
はたして、値段はいかほどの品であろう――麟太郎は思案顔で懐を探ってみたが、たちまち苦笑を漏らした。まさかこんなものに遭遇するとは思っていなかったため、大した額を持ち合わせていなかったのを思い出したのだ。
仕方ないと立ち去りかけてはみるものの、やはり洋灯の傘の色具合がどうにもいいものに思えて仕方がない。
ここで無理に家路についたところで、さてと文机に向かっても思い描くのは飴色の中に浮かぶ蜻蛉の姿ばかりだろう。そのさまがいとも容易く想像がついてしまうので、尚のこと立ち去り辛い。
こうなってしまうと、あとはもうどうしようもない。暫く軒先で入るか入るまいかと思案していた麟太郎だったが、
「ええい、このままでは埒《らち》があかん」
と、思いきって店の戸口に手をかけた。
値段を聞くくらいなら構わないだろう。手の届きそうにない額であれば、いっそのことも諦めもつく。
よく手入れされていたのか、扉は古いにも関わらず、大して音も立てずに開いた。
足を踏み入れると、埃っぽい独特の匂いの中に微かに線香の香りが漂っている。
「ご免」
麟太郎は入り口に留まり、何度か奥に向かって声をかけてみたが、聞こえないのかそれとも何か用向きでもあるのか、誰かが出て来るような気配が一向になかった。
暫く所在な気に突っ立ったままそこらを眺めていた麟太郎であったが、自分を取り巻く品々に目向けているうちに、どうにも我慢ができなくなってきた。
主人なり使いの者なりが出てくるまでは勝手に見させてもらう。咎められたら謝ればよいのだ――麟太郎は自分にそう言い聞かせ、お宝ともガラクタとも判別のつかぬ物が所狭しと並べられた棚に向かった。
薄暗い店内は、まるで古い蔵の中にでも入ったかのような具合だった。
そういえば――と、麟太郎は自分がまだ子供だった頃に、家の蔵に入り込んだときのことを思い出す。
あのときも、この店のようにいろんなものが置いてあった。薄暗がりの中を半ベソをかきながら後ろにくっついてきたのは、二つ違いの弟だったか、それとも幼馴染みの露子だったか。何故かその時の記憶が思い出され、しらず笑みを浮かべてしまう。
あのときは確か、普段見られないようなものを勝手に引っぱり出しては眺め、散々散らかした挙げ句にその場で眠ってしまったのではなかったか。夕暮れ時に家人が血相を変えて捜しまわる声に目醒めたような記憶が微かに残っている。
夕闇迫る暗がりの中、寝ぼけ眼《まなこ》に映った親の顔が鬼の形相にも見えて、肝の小さかった弟などは、本当に鬼が攫《さら》いに来たのだと勘違いして泣き出してしまったのだった。
その後、倉には鍵がかけられた。にも関わらず、麟太郎の探究心は飽く事を知らず、蔵が駄目なら離れの押し入れ、天井裏と次々と場所を変え、そして町に出れば出たで、知らない道にも構わず入っては迷子になり、その度に散々怒られ絞られたものだ。
さすがに小学校を卒業する頃には弟には愛想をつかされたのか、冒険に付き合ってくれるのは露子だけとなり、そうして彼女もほどなくして親の都合で横浜へと越してゆき、麟太郎は一人で夕闇を散策するようになった。
(何だかな……)
浮かべた微笑が苦笑にかわったのを自覚し、麟太郎は頭をかく。
もうあの頃とは何もかもが変わってしまった。変わらないのは、この店のような古くからあるものたちと、暗がりだけ。そんな中ばかり歩いていたから、皆に取り残されてしまったのだろう。
親元を離れて随分と経つ。両親は息災だろうか。弟はどうしているだろう。横浜に行った露子は――
「いかん、いかん」
麟太郎はひとりごち、頭《かぶり》を振った。
ここ暫くの間ずっと下宿に篭りきりだったせいか、人恋しくなっていたのだろう。
珍しいこともあるものだと、誰に聞かせるでもなく呟きながら、目の前にあった茶碗を手に取ろうとした。そのとき。
麟太郎は、己《おのれ》を見つめる密やかな視線に気付いた。
慌てて振り返るも、視線の方向には誰も居《お》らず。
ただ、変わらぬ薄闇が静かにたゆたっているだけである。
手を伸ばしかけた不安定な格好のまま、麟太郎は暗がりの中にじっと目を凝らした。が、やはり人影どころか気配もない。
はじめは自分を盗人か何かと勘違いした店主が、陳列棚の影にでも隠れて様子を窺っているのかと思った。
しかしそれならば、誰何《すいか》の声が上がる筈である。
麟太郎はそろりと手を下ろし、視線の主を探してその方向へと歩き出した。
ふと、忘れていた線香の香が強くなる。壇香梅――白檀だ。
白檀は、露子がいつも持っていた匂い袋の香りであった。香《こう》を焚き込めた小さな匂い袋は、魔除けにと麟太郎があげたのだ。
記憶に直結する芳香に、目眩をおぼえる。
しかし、何故だろう。
何故今になって露子のことが気にかかって仕方が無いのだろう。
もう何年も完全に忘れていたことではなかったか。
そうは思いながらも、麟太郎の足は止まらない。
何かが居る。暗闇の中に、自分を喚ぶものがいる。
まるで暗闇に吸い込まれるような、どこか懐かしい感触に、麟太郎は不思議な笑み浮かべた。
ゆっくりと、一歩一歩を確認するかのように進み、棚の合間を抜けて視線の主に目を向ける。
変わらぬ薄闇の中。そこに居たのは。
「莫迦《ばか》な――」
咄嗟に思い浮かんだ名を、麟太郎は即座に否定した。
棚の影に居たのは一人の女性。しかもそれは、麟太郎が知っているはずのない、成長した露子そのものであったのだ。
露子は黒く長い髪を緩やかに結い上げ、白皙の顔に艶《あで》やかな笑みを浮かべてじっと麟太郎を見つめていた。その笑顔の中に、どうして私を忘れていたのかとも言いたげな恨めし気な光が浮かぶ。
彼女が纏っている緋色の着物と同じか、それ以上に赫《あか》い色をした紅《っべに》が、厭に目について――
「やめろ」麟太郎は低く呟き、片手で目を覆った。「私を惑わすな」
言い終えぬうちに、ぐらりと天地が揺れるような感覚が麟太郎を襲う。と同時に、あれほど強かった白檀の甘い香りが急激に薄らいでいった。
時間にすればほんの数刻。だが麟太郎には、それが極めて長い時間であるかのようにも思えた。
揺れが治まるのを待ってから手を下ろし、再び薄闇へと目を向ける。
目の前にはすでに女の姿はなく、かわりに目に映ったのは、店の奥、突き当たりの壁――何本かの掛軸が掛けてある、その中程に居る〈彼女〉であった。
乱れかけた呼吸を整え、麟太郎は彼女のもとへと歩み寄った。そうして、子細に観察する。
江戸風の質素な仕立てが施された掛軸には、一人の女性の立ち姿が描かれていた。
艶やかな長い黒髪を緩く結い、緋色の衣を纏い、白い顔に赤い紅――紛れも無く、つい今し方麟太郎が目にした露子と同じ出で立ちである。
だが、絵には一つだけ露子と違う所があった。
夜闇のような黒髪に埋もれる小さな白いもの。それは、小指ほどの大きさをした一対の角であった。
彼女は鬼だったのだ。
「もし」
唐突にかけられた声に驚き、振り向くと、そこには黒の上着を羽織った小柄な男が一人、麟太郎の表情を窺うように立っていた。
「少々留守にしておりましたので……何か御用でも」
どうやらこの骨董店の店主のようである。
麟太郎は男から顔を背けると、しばしの間、目を閉じた。自分でも、険しい顔をしているのがわかっていたからである。
ひと呼吸おいてから店主とおぼしき男に向き直ると、麟太郎はいつものような柔和な微笑を浮かべて言った。
「ええ、気になる品があったもので。勝手に上がり込んだりして申し訳ない」
「そうですか」
留守の間に店に入り込んだ男を見つけて、もしや盗人ではあるまいなと警戒していた店主であったが、麟太郎の物言いに小さく安堵の溜息を漏らした。だが、緩みかけた表情は、麟太郎が凝視していた掛軸を見て再び強張った。
「何か」
麟太郎が声をかけると、店主はぎくりと固まる。
「まさか、その品というのは、これのことでは」
「だとしたら、どうだと」
「いえ、何でもありません。何でも。ただ……」
「何です」
言い淀んだ言葉の先を促され、店主は狼狽えたように掛軸と麟太郎の顔とを交互に見比べた。が、やがて小さな溜息をつくと、麟太郎にこう告げた。
「もしお時間があるようでしたら、上がってゆかれませんか。これについてのお話でも」
何かを諦めたような、そして決心したかのような口ぶりに、麟太郎は無言で頷いた。
†
麟太郎が通された座敷には、店に入った時に嗅いだ線香の香が残っていた。閑静な住宅街、雨間の昼下がりともあって、あたりは至極静か。麟太郎の耳に届くのは、柱に掛けてある時計が時を刻む音だけである。
そんな静寂を破るかのように、廊下から足音が近付き、間もなく襖が開いた。
「午前中に先代の初七日を済ませましてね。それで、その御挨拶に近所を回っておりましたので…」
言いながら、店主が湯気のたつ湯呑みを盆に乗せて室内へと入ってくる。
「店も丁度休みにしましたもので。使用人も皆暇を出して帰してしまいましたから、お味の方はどうかご容赦を」
「いや、こちらこそ、そのような忙しいときに邪魔をして申し訳ない」
麟太郎が苦笑しながら頭を下げると、店主もまた同じように苦笑を返した。
店主――佐々木洋一と名乗ったその男は、歳は三十をすぎた頃であったが、もう四十代ともとれるような、血色の悪い、少々くたびれた感じのする小男であった。
「さて、何でしたかな。ああ、そうそう。あの掛軸のことでしたな」
佐々木は麟太郎の前に座った後も、暫くの間もぞもぞと居心地が悪そうにしていた。どこからどこまでを話してよいものやらと思案していたのだろう。麟太郎は黙って出された茶をいただき、佐々木が口を開くのをじっと待っていた。
ようやく決心がついたのか、佐々木は小さな咳払いを一つすると、こう切り出した。
「私の方からいきなりこのようなことを申し上げるのも何ですが。悪いことは申しません。あれはお止《よ》しになられた方よろしいかと」
唐突な物言いに、麟太郎は瞑目した。
あの掛軸が欲しいなどとは一言も言っていなかったはずなのだが、佐々木の方はそのことはすっかり失念してしまっているらしい。
けれども、麟太郎はその間違いを訂正するつもりはなかった。ただ事ではなさそうな雰囲気に、好奇心が勝っていたからである。
「それは、何故です。売り物ではないのかな」
麟太郎の探るような視線に、佐々木が口籠る。
「いえ、売り物です。ですが、その……あれは少々縁起が悪くて」
自身の言葉の歯切れの悪さに一層居心地を悪くして俯いてしまう。が、すぐに顔を上げて言葉を続けた。
「いえ、ね。貴方のような若い人を不幸な目に遭わせても、こちらも夢見が悪いですからね」
一度話し出してしまうともう後は気が楽になったのか、佐々木はそれまでの胸に痞《つか》えていたものを吐き出すかのように喋り続けた。
「まぁその、話せば長いことながら。そもそもあの掛軸を拾ってきたのは先代……つまり、私の父でして。まだ私がほんの子供の頃のことです。
拾ったというのも妙な話ですが、実際頂き物なのかそれともどこぞの借金のカタに質に取られたものが流れてきたのか、肝心なことを父が何も口にしなかったので、さっぱりわからないのです。
箱書きもなければ、落款《らっかん》もありません。そんな出自もわからないような代物などは、本来ならば大した値もつけられません。ですが、何を思ったのか、父はこれを何食わぬ顔で他の掛軸と共に並べ、売りに出してしまいました。
母や使用人は、鬼の絵なんて誰が買うんだと眉を顰めたものですが、父は全く意に介しませんでした。
鬼であっても、世間では幽霊絵を集めていらっしゃる奇特な――あぁ、いや、少々変わった嗜好をお持ちの方もおりますことですし。それに比べたら、これは角さえ気にしなければ普通の美人画として通るだろうというのが、父の言い分でした。
身内の恥を曝すようで何ですが、父は少々お金に汚い所がありまして。別にやましいことをしていたわけではないのですが、何というか、売れるものだったら高値をつけても売れるというのを知っている分、こういった品物を物置で腐らせておくのが厭だったんでしょうね。
そんなわけで暫く店に並べておいたのですが、父の目論見どうり、買い手はすぐにつきまして。いつも懇意にしていただいているさるお方の家へと貰われていきました。
ところが数カ月の後、大変なことが起こりまして」
「大変なこと」
「はい」
麟太郎の目を真直ぐに見返しながら、佐々木は言った。
「お亡くなりになったのです。その、掛軸をお買い上げくださったお方が」
†
はじめに掛軸を購入したのは、町の上手に住む男だった。
時々ふらりと店に現れ、この碗のどこがいいだのどこそこの何がいいだのと、店主である父親と共に長々と話しこんでいたのを、当時まだ子供だった洋一はよく覚えている。
その男が何を生業としていたかをまだ幼かった洋一には知る由もないが、あまり感じの良い人物ではなかったのは確かであった。かといって、ものを見る目まで悪かったわけでもなく、萩の茶碗など良い品が入ったと報せるばすぐに飛んで来るような、そんな男だった。
その日も、男は掛軸を見るなり一目で気に入ったらしく、風呂敷に包んたそれを大切そうに懐に抱き、喜んで帰路についた。
紫の地に小さな白い花の散った風呂敷の紋様まで、洋一ははっきりと記憶しているのだが、どうしてそんな細かいことまで覚えていたのか、そのときの彼にはわからなかった。
今にして思えば、虫の報せとでもいうのか、何かしら漠然とした不安を感じていたのであろう。
案の定、同じ模様の風呂敷は、ほどなくしてまたこの店へとやってきた。出て行った時と同じ品を包んで。
しかし、持ってきたのは違う人物であった。
丁稚とおぼしき小坊主が一人。難儀な用件を言いつかったせいか、始終落ち着かずにそわそわとしていた。
聞けば、主人は数日前に急に具合を悪くして、そのままぽっくり逝ってしまったらしい。病床の最中でも、譫言《うわごと》でこの軸のことを呟いていたので、家人が気味が悪いからそんなもの返してこいと言ったのだ。
「御代を返せとは申しませんから」
よほどきつく言われていたのだろう。平身低頭で畳に額を擦りつける相手が哀れになり、洋一の父は黙って掛軸を引き取り、鬼女は一旦蔵の奥へと戻された。
それで、その件はひとまず落ち着いた。
それから何年かの間、鬼女の存在は誰の記憶からもさっぱり忘れられていた。
しかしあるとき、棚卸しをしていた父親が再び軸の入った箱を見付けてしまったことが、後に続く騒動のはじまりとなる。
「またそんなものを出してきたりして」と、母は不愉快そうに眉を顰めたが、父は「あんなのはただの偶然に決まっている」と、意にも介さなかった。
もともと迷信などを信じないくちで、こうと思ったら頑として意地を通すたちだった洋一の父は、妻に咎められたのが面白くなかったらしい。
店の一角に再び掛軸を出した後、すっかりへそを曲げてしまい、しばらくの間、一言も口をきかなかった。
だが、やはり見るものを見る人物というのは現れるものである。鬼女の掛軸は、二週間とも経たぬうちに、新たに買い手がついた。
まるで父の機嫌をとるかのようにあっさりと決まるのを、母はもちろん洋一自身もどこか薄気味悪く感じてはいたが、商売事に口出しなどできるはずもない。
洋一はどこか落ち着かない気分のまま、軸を抱いて帰ってゆく客と、それを満面の笑みで見送る父親の後姿とを、店の奥から眺めていた。はじめの客の時と同じような、漠然とした不安な面持ちで。
そして、その予感は適中した。
慌ただしい足音と共にひとりの男が店先に飛び込んできたのは、それから三月《みつき》ほど経ってからのことであった。
例の掛軸を買い上げた人物の弟だというその男は、店に入るなり、兄にあんなものを売り付けた奴はどこのどいつだと怒鳴り散らした。
少々のことでは動じなかった父親も、さすがに男の勢いに恐ろしくなったらしい。男の剣幕は、近所の者が駐在を呼びに慌てて走るほどのものであったのだ。
とにもかくにも、まずは事情を聞かねば話が進まぬ。そういうことで、使用人総手で男をどうにかなだめて奥の座敷に通し、事情を聞き出してみた。
すると、男の兄――先だって例の鬼女の掛軸を買い上げた人物は、あれを手に入れてからというものの、すっかり人が変わってしまったのだという。
仕事もせずに毎日壁に掛けた鬼女を眺め、まるで魂を抜かれたよう。そのうち事業には失敗するは酒には溺れるは、妻にも離縁を言い渡されるはで、借金もかさみ、とうとう先日、入水してしまったとのことだった。
洋一の父親は、絵に描いたような転落劇を聞かされ、もはや返す言葉もなかった。
†
「それで、どうなったのです」
ひととおりを一気に話してしまったあと、大きな溜息をつく佐々木を、麟太郎は促した。
「……それで、さすがに立続けに不幸が続くと父も不安になったのか、一度は寺に持って行って、供養でもしてもらおうかと考えたようです。けれど、なかなか行動に起こせずにいるうちに、また新たにあれを欲しいから是非にという話があがりました。
一体どこからか噂を聞き付けてきたのやら、わざわざ京都の方からお越しになられた方でした。こちらが渋っておりましたらば、その手のものは扱い慣れているから大丈夫だと仰いましたので、それなら……と思い、譲ったのです」
「ところが、また何かあったわけですな。でなければ、此処にあれが在る筈がない」
麟太郎の言葉に、佐々木は疲れ切った顔に弱々しい笑みを浮かべた。
「はい、そのとおりです。家財一切をうしなう大火事に見舞われたそうで」
「火事ですか」
「ええ、夜中に、まったく火の気のないところから出たそうです。突然のことだったから気が動転したのでしょう。その方が無我夢中で胸に抱いて飛び出したのが、ついこの前購入したばかりの鬼女。さすがにこれはもうどうしようもないと投げ出されて、結局こちらへ戻ってきたわけです」
そうして、この騒動の後、掛軸にまつわる怪は瞬く間に近所中に知れ渡ってしまった。
噂は噂を呼び、いつしか得体のしれない尾ひれがつき、やれ魂を喰われるだの何だのという実に陳腐な――それでいて、どうにも無視しがたい曰く付きの代物が出来上がり、遂に、店に客足は途絶えた。
「ですから、もうこの店は閉めてしまおうかと考えているのです。私自身は、別のところに勤めておりますし、客などは、もう見込みもありませんしね」
佐々木はそこで一息つくと、寂しげに笑った。先に使用人を帰したと言ったのは、そういうわけだったのだ。
「そうですか。そのようなことがあったとは」
麟太郎はすっかり冷めてしまった湯のみを手にとり、底に沈む茶葉を眺めた。
「……と、まぁ、そういう次第です。ですから、あれはお止しになったほうがよろしいと申し上げるのです」
「なるほど」
冷めた茶を啜り、押し黙る。佐々木の方もまた、話すべきことを全て話し終えたつもなのだろう。互いに沈黙を守ったまま、暫しの時間を過ごす。
使用人を帰してしまったと佐々木が言ったとおり、家の中はとても静かだった。ただ、時を刻み続ける柱時計の音がするだけである。
人の気配のしない家の中、二人の男のどちらが先に口を開くのか、店先の品物までもが密やかに息をつめて見守っているかのようであった。
「一口に鬼と言っても、いろいろありますが」
先に口を開いたのは、麟太郎の方だった。
「あの鬼は、夜叉でしょう」
「夜叉、ですか」
「もとは印度や中国のものですが、この国では鬼子母神ともいう」
「はぁ」
何やら要領を得ない顔つきで佐々木が返事をする。麟太郎は首を廻らせて店の方を見遣った。
「名に鬼と付けども、元は愛情深い普通の女です。女性《にょしょう》は表裏一体。深く愛すこともあれば、同じように憎むこともある。あの掛軸の鬼は、おそらく、探しておるのでしょう」
「……何をですか」
「人を。自分の気に入る持ち主を、自分が好いた持ち主を。だから、そこに辿り着くまでは流転を繰返す。気に入った所から自分の意志とは関係なしに離れれば、何としてもそこへ戻ろうとする」
「はぁ……」
「同じように、人もまたものに執着する。何としても手に入れたいものをみてしまったとき、或いは、手許に置いておきたいものと出会ってしまったとき、あなたならどうされる」
再び座敷へと戻った麟太郎の目が、佐々木の正面を捉える。
佐々木は答えない。きちんと正座した膝の上で、拳に力がこもったように見えたのは気のせいか。
「御主人。あなたは、あれをどうするおつもりかな」
「さて……どうしたものか……」
俯き、言葉を濁すが、佐々木が胸中でどう思っているのかは容易に窺い知れた。
再び静寂に包まれる座敷の中、線香の香りが時折ふっと二人の鼻先を掠める。それはあたかも、掛軸の鬼が息を詰めながら二人の言葉に耳を澄ましているかのようであった。
「御主人」
「はい」
麟太郎に呼ばれ、佐々木がはっとしたように顔をあげる。
「私のような者が唐突にこのようなことを申し上げるのは何だが、あれは、やはり一度は寺なり何なりで、きちんと供養してもらった方が良いでしょう」
麟太郎は湯のみを卓の上に戻し、佇まいを直した。
「御主人は、付喪神《つくもがみ》というものをご存知ですかな」
「つくも……ですか」
「つくもは元々は〈九十九〉と書き、九十九年を経た物に魂や精霊などが宿ったもののことを指します。そしてそれらは、経てきた年数が長ければ長いほど、大きな力をつけるとも云われています。
「おそらくあれは、己に込められた念が――あれを描いた何者かが絵に込めた想いが、鬼女に命を吹き込んでいるのだと思われます。一体何を思ってあれを描いたのか、その者の胸の内まで推し量ることはできませんが、あれは意志を持っている。それは確かです」
はじめて店に足を踏み入れた麟太郎を誘ったように。
何故そのようなことをするのかはわからない。
ただ、鬼女は訪れる者の心を次々と捕え、胸の奥底に燻るものを暴き、弄び、そしてまたここへと戻って来る。自分の帰りを待ちわびる者がいるこの店に。
「それ以上についてを申し上げることは控えておきましょう。私などが口を差し挟むのは不粋かと」
申し訳ないといったふうに苦笑を浮かべ、麟太郎は頭を下げる。
「好いたものや場所があれば、頑として動こうとはしないでしょうし、逆にあれが気を他所に移すことがあれば、自然とその場へと行くことでしょう。それを妨げるのはまずもって不可能。中途に人が手を出せば、命を落とすだけ……あなたが責を感じているのなら、尚更、人ならざる神を野放しにしてはいけない」
はっきりと言われ、佐々木は困惑の表情で目を瞬かせた。そしてすぐにまたうつむき、自らの膝頭を凝視する。
「そうですか……」
佐々木の漏らした声はくぐもり、力がなかった。だが、
「そうですか」
もう一度、佐々木は言った。
今度はいささか力のこもった、腹からの声だった。
「わかりました。きっと、そのようにいたします」
すっと背筋を伸ばし、麟太郎に正対する。憑き物が落ちたかのような、すっきりとした顔だった。
麟太郎は小さく頷くと、再び湯呑みに手を伸ばした。しかし、湯呑みはすでに空となっていた。
ふと気付けば外はすっかり日も暮れて、日没間近となっている。
「いや、どうも。すっかり長居してしまいましたな」
薄暗くなりつつある部屋の中、麟太郎は湯のみを卓の上に戻し、ぺこりと頭を下げた。
「ともかく、御主人が心配されているようなことはもう無いでしょう。私がこの店に入ったのも、あれとは別のものに惹かれてのことですから」
そうして、ばつが悪そうに苦笑しながら、帰りの道をたずねる。
佐々木は呆気にとられたように目を瞬かせていたが、すぐに吹き出し、声をあげて笑った。
---(08.2.22更新分)
家々の瓦は雨に洗われ、輝く面《おもて》は暮れ泥《なず》む夕陽に染まる。
その下でまだぬかるむ裏路地を、麟太郎は道案内の佐々木と共にとりとめもない話をしながら歩いていた。道案内までは不要だと麟太郎は言ったのだが、佐々木がどうしても譲らなかったのだ。
麟太郎が目をとめた洋灯も、佐々木の好意でしばらく取り置いてもらうこととなっていた。
どうせ店も閉めるのだし、いっそただで引き取ってもらっても構わないとも佐々木は言ったのだが、麟太郎は丁重に断った。
とはいえ、まだ物書きとしてさほど売れておらず、郷里の仕送りも期待するほどは無い。しかし代金分が貯まったらきっとまた訪れるからと麟太郎は佐々木に約束し、佐々木もようようこれを承諾した。
やがて、見覚えのある四ツ辻まで辿り着く。
「ああ、ここならわかるぞ」
安堵の声をあげる麟太郎に、佐々木が足を止めた。
「では、私はこの辺で御無礼いたしましょう」
慇懃に礼をし、暇《いとま》を告げる。
「それでは、また」
互いにそう告げる足下には、一段と色濃くなった家々の影が落ちていた。
それぞれの方向へと向かう足音が、徐々に遠く小さくなる。
長い影を引きながら家路につく麟太郎は、ふと立ち止まると、後ろを振り返った。
しかし佐々木の小さな体はすっかりと夕闇に溶け込んでおり、もう何も見えなかった。
†
「へぇ、そんな話があったとは」
綺麗に色づいた瓜を頬張りながら、新米編集者の高城敏継《たかぎ としつぐ》は言った。
高城は、社からの遣いとして、遅筆で有名な結城麟太郎の原稿の催促に来ていた。
しかしながら、この柔和な顔付きをした若い作家は、暫く書斎にこもりきりで人恋しかったのか、自分からなにかと高城に話し掛け、少しも原稿を書こうとしない。
幸いにも原稿はほとんど仕上がっており、あとは少々見直すだけだと言うのだが、なかなかその仕上げに取りかかろうとしてくれない。
話す暇があるなら手を動かしてくださいと何度頼んでも無駄で、いい加減諦めた高城は縁側に退避し、距離を置いて適当に相槌をうっていた。
そんなとき、何気なくやった目が文机の上の洋灯に止まった。。
こうして原稿の催促に来るのははじめてではないし、洋灯を見るのもそうなのだが、何故かそのときの高城には、この小さな蜻蛉の透かし模様の入った飴色の傘が気になって仕方がなかった。
麟太郎は、普段から贅沢などとは全く無縁の暮らしをしている。部屋の調度も主人の気質を反映してか、どれもがごくごく普通の品ばかり。そんな中にあって、ただひとつだけ存在を主張するかのようなこの洋灯は、どうにもそぐわない不自然なものとして高城の目に映ったのだ。
一体どういう経緯で手に入れたのだろう――頭をもたげた好奇心が、つい口から出てしまう。
長くなるぞと前置きをされて、内心しまったと思ったのだが、もう後の祭り。
覚悟を決めて麟太郎の口から語られる話に耳を傾けることしばらく。高城の居る縁側には、高くなった日が色濃い影を落としていた。
「でも先生。どうせなら、今の話を書いてくださればよかったのに」
世間では麟太郎がいつも書いているような何だかよくわからぬ話よりも、こういった怪奇めいたものの方が読者受けが良い。
ネタがあるんだったら、と縁側から恨みがましい視線を寄越す高城に、新たに切り分けた瓜を乗せた盆と、大きな茶封筒を手にした麟太郎が笑った。
小暑も過ぎ、かかる日射しはすでに夏模様。炎天とまではゆかずとも、日当たりの良い所は充分に暑い。そんな最中をこれから社まで急いで戻らねばならぬわけだから、高城でなくとも恨み言のひとつやふたつ、言いたくなって当然である。
「そのおかげでこうして瓜にありつけたんだ。良かったじゃないか」
「それはそれ、これはこれです」
高城はきっぱりと言い切り、指についた甘い汁を舐めた。
瓜は麟太郎が下宿しているこの部屋の大家からの差し入だった。早くに収穫したためにやや小振りだが、甘味はしっかりとついていた。
朝からずっと井戸水につけておいたのもあり、陽の当たる縁側でずっと原稿を待ち続けていた高城にとっては、涙が出るほど有り難いお裾分けだ。
しかし、当の麟太郎自身の口にはまだ入っていなかった。
原稿があがってからにしてくださいと、高城からおあずけを喰らっていたのだ。
「いや、すまんすまん。ここに入れておいたから、後は頼む」
麟太郎が高城に、ようやく仕上がった原稿を収めた封筒を差し出す。
「はい、確かに」
高城は粗方食べ終えた皮を皿に戻し、手ぬぐいでしっかり手を拭いてからこれを受け取った。
すっかり日に焼けて熱くなった鞄に仕舞い込み、きちんと鍵をかける。
これからこれを抱えて、急いで社まで戻らなければならない。陽炎ゆらめく道中の様子を思い浮かべ、高城は溜息をついた。
「ああ、やれやれ。やっと食べられる」
子供のような笑みを浮かべ、麟太郎は高城の隣に腰を下ろし、瓜に手を伸ばした。
高城は喜々として瓜にかぶりつく麟太郎の横顔を何とはなしに眺めていたが、ふとあることを思い出し、たずねた。
「それで、その後はどうなったんです」
「その後というと」
「またまたぁ、とぼけないでくださいよ」
「ああ、なかなか金の工面が出来なくてなぁ。引き取りに行くまでに、丸一年もかかってしまった」
麟太郎はたった今まで執筆をしていた部屋を、顎で指し示す。壁際に寄せた小さな文机の上には、飴色の傘がぼんやりとした薄暗がりの中に浮かんでいる。
「そうじゃなくて、掛軸ですよ。か、け、じ、く。骨董屋の御主人は、今もまだこの町にいらっしゃるんですか」
高城は麟太郎ににじり寄った。しかし麟太郎は、
「ああ、それか」
ぷっと小気味良い音を立て、種を植え込みに向かって飛ばした。
「あの洋灯を引き取ってから間もなく、亡くなったと聞いた」
「ええっ」
思いもしなかった返答に、高城は目を剥いて仰け反った。
「じゃぁ、やっぱりその御主人も、鬼女に殺されちゃったんだ」
「それはどうだろうな。もともと身体を悪くしていたらしいから、一概にそうとは言えんだろう」
「でも、掛軸の持ち主は、今のお話だけでも二人亡くなっていますよ。骨董店の御主人も入れたら、三人は亡くなったことに。あっ、もしかしたら、先代の御主人も鬼女が原因なんじゃ。だったら四人も人死にが」
「ふむ、そうなるかな」
「そうなるかなって、先生、そんなまるで他人《ひと》ごとのように仰らなくても」
「他人ごとさ。それ以上でもそれ以下でもない」
やけにあっさりと切り捨てられ、高城はそれ以上言葉を続けることができなかった。
高城は、麟太郎の飄々としたところは好きだったが、時折見せるこういった突き放したような態度だけは、どうにも馴染めなかった。
薄情とまではいかずともどこか厭世的で冷淡な面は、一見すると人当たりの良いこの男がひっそりと抱える闇の部分にも思え、落ち着かなくなるのだ。
それでも、やはり掛軸にまつわる話は気になって仕方がない。しつこいと煩さがられるのを承知で、高城は麟太郎にたずねた。
「……じゃぁ、掛軸の方は、今はどこにあるんでしょうか。まだお店にあるのか、誰かの手に渡ったのか」
「さて、どうだか。私の耳に入ったのは、御主人の話だけだったからなぁ」
望む答えが得られずに落胆する高城を横目に、麟太郎はひとりごとでも呟くように言葉を続けた。
「普通ならああいうものに出会うのは極ごく稀《まれ》なことだ。無闇矢鱈《むやみやたら》と怖がる必要はない」
「こ、怖がってなんかいませんよ」
麟太郎の揶揄に、高城は慌てて首を振った。
「おや、そうかい。私はてっきり、君が怖がっているんじゃないかと」
くすくすと笑われ、高城は子供のようにむくれる。
腹いせにもうひとつ瓜を手に取り、むしゃぶりつく。
そうして暫く無言で瓜を食べていた高城だったが、再びその動きを止めた。
「……でも、先生。もし僕が今後どこかでその掛軸に出会うことがあったとしたら、それでもって彼女に万が一好かれちゃったりした場合には、一体どうしたらいいんですかね」
「どうもこうもない。諦めろ」
「そんな殺生な」
「あり得ないことを気に病んでも仕方ないだろう。それより、押し込み強盗の心配でもした方がいいんじゃないか。最近多くなったと聞くからな。高城君は、武道の心得もなさそうだから、押し込まれたら大変だぞ」
「失礼なことを言わないでください。こう見えても、柔道は黒帯なんですよ」
「へぇ、そいつぁ意外だ。驚いた」
「先生こそ、泥棒に向かってそうやってにこにこ笑って説教なさるくらいしかないんじゃないですかね。最近の泥棒は血も涙も無い、命も平気で取るって話ですから、せいぜい気をつけてくださいよ」
「そうだなぁ。鬼女よりも、そっちの方がよっぽどか怖いやなぁ」
そう言って、麟太郎は声をあげて笑うのだった。
……ひとまずここまで……
《鬼の章・続く》





